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仁徳天皇陵古墳

仁徳天皇陵古墳

 大阪府堺市の仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)に参拝した。

 仁徳天皇陵古墳の正式名称は、百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)である。

 この柵の前で参拝し、「民のかまど」の話で有名な仁徳天皇に崇敬の念を捧げた。この話について、竹田恒泰著 現代語古事記の第十六代 仁徳天皇の項から引用して紹介する。

 さて、天皇(すめらみこと)は高い山にお登りになり、四方の国土をご覧になり「国中に炊煙が立ち昇っていない。国内は皆、貧しいのだろう。今から三年の間、ことごとく人民の課(みつぎ)と役(えだち)を免除しよう」と仰せになりました(「課」は朝廷に納める品物、「役」は労役)。

 そのため、宮殿は破れ壊れ、ことごとく雨漏りするようになってしまいましたが、全く修理することなく、器でその漏れる雨を受け、漏れない所に移って避けました。やがて天皇が国中をご覧になると、国土に煙が満ちていました。そこで、人民が豊かになったと思し召し、ようやく課と役を課しました。

 こういうわけで、百姓(おおみたから)は栄え、役務に苦しまなくなりました。そのため、その御世を称えて聖の帝の世(ひじりのみかどのよ)というのです。

 今の世で言えば、国民が経済的に苦しんでいるのだら、所得税、消費税を三年間ゼロにしたようなものである。政府は仁徳天皇のように国民のことを真剣に考えてもらいたいものだ。

 古墳全体の形は、全長520mと大きいために全然わからないが、下の写真のような模型があった。もともと三段になっていたが、樹木で覆われて山のようになってしまっている。

 このように大きな建造物をこの時代の人はどのようにして造ったのか。これについて田中英道先生は、巨大土木工事技術に秀でたユダヤ人、フリーメイソン(石工)が渡来してきて造ったものだと唱えられている。竹田恒泰著 現代語古事記の上述の第十六章にも、「秦人(応神天皇の御世に朝鮮半島南部から渡来した集団)を使役して茨田堤と茨田三宅を作りました。この時、枚方市から大阪市まで七里(28Km)に及ぶ堤防が築かれたと伝わります。」と書かれている。秦人というのは秦の始皇帝で有名な秦氏で田中英道先生は西方からやってきたユダヤ人であると解説されている。なお、応神天皇は仁徳天皇の父で、応神天皇陵古墳は大阪府羽曳野市にあり、仁徳天皇陵古墳に次ぐ大きさの全長425mである。

 また、ある建設会社が、この古墳の建築費用を見積もったところ、150万人ぐらいの延べ人口で15年かかっただろう、ということだ。 この見積もりについては、調べると大林組が行ったことがわかったので、興味ある方はご覧いただきたい。

 現代技術と古代技術による仁徳天皇陵の建設 

  復元:大林組プロジェクトチーム

 https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/digest_kikan_20_idea.html

 

 周囲には小さな古墳がいくつもある。

 

 古墳の全貌は、百舌鳥古墳群ビジターセンターで空撮映像を流していたので、その一部を紹介する。

奈良県立医科大学

 大阪府堺市の仁徳天皇陵から奈良県橿原市の宿への帰路、道路沿いに奈良県立医科大学があることを妻が見つけた。忘れもしない令和4年7月8日、安倍晋三内閣総理大臣が撃たれてヘリコプターで運びこまれたのが、奈良県立医科大学付属病院である。なぜ忘れもしないかと言えば、筑波山神社のある筑波山に高天原があった可能性があるという田中英道先生の説を実地探訪するために筑波山に登った日だからである。

 どの建物かはわからないが、奈良県立医科大学の文字が読み取れるし、屋上にヘリポートがあるので間違いないだろう。

以上

(2025/3/12)