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御朱印集め(2) 鹿島神宮と高天原
関東三社参りを行った。江戸時代には伊勢神宮参りをしたあとに、鹿島神宮、香取神宮、息栖神社のお参りするという、当時は東国三社参りと呼んだその三社だ。ここで本題の前に御朱印集め始めた動機をお話ししよう。
私は田中英道先生の「神話で読み解く日本の起源史 第三巻 聖地探訪・日本神話の歩き方」(ダイレクト出版)という講義を視聴したときに、学校で教えられなかった神話の世界が霧が晴れたように目の前に現れた。そしてその神話の世界を日本の現実の歴史とつなげているのではないかと思われる神社をこの目で見たい、と強く思った。御朱印集めは、せっかく神社巡りをするのだから巡礼の記録として残そうということだ。
因みに田中英道先生は、ボローニャ大学・ローマ大学客員教授、国際美術史学会副会長、東北大学名誉教授としての経歴をお持ちで、「西洋美術史の第一人者」と呼ばれており、西洋美術研究のあと、日本の歴史や日本の美術研究を行われており、現在は「日本国史学会」の代表を務められている。昨年秋、日本学術会議委員6名の任命拒否問題が起こったとき、こんなに立派な日本学術会議批判演説をされる方がおられるのだ、と感動したのが日本国史学会の田中英道代表で、あとで知ったが日本国史学会は日本学術会議傘下にない。
前述の「聖地探訪・日本神話の歩き方」は田中英道先生が、実際に神社に行って、神話との関わりなどを解説してくださるのだが、私の関東三社巡りは、田中先生の足跡を辿ったもので、このブログ中で述べることは、田中英道先生のお考えを、自分なりに理解し直したものである。また田中英道先生のお考えは神社公式見解とは異なることもあるとのことなので予めお断りしておく。
関東三社の位置関係
鹿島神宮、息栖神社は茨城県、香取神宮は千葉県にあり、三社でおよそ息栖神社を頂点とする二等辺三角形を形成する。
それでは鹿島神宮に行ってみよう。
鹿島神宮 西の一之鳥居・本殿・奥宮・東の一之鳥居 位置関係
北浦に面する大船津の水上に立つ西の一之鳥居(にしのいちのとりい)、本殿、奥宮、鹿島灘に面する明石浜の東の一之鳥居はおよそ東西の線上に並んでいる。
以下の境内案内図を撮影したものに西の一之鳥居、東の一の鳥居の方向と本殿、奥宮を大きな字で書き加えた。これまでのGoogleマップとは東西が逆になっている。
西の一之鳥居から境内に達すると、参道はこの案内図にある大鳥居、楼門をくぐり、杉の原生林のなかをつらぬき、この間、鳥居、楼門以外の建造物はない。そして海まで行くと東の一之鳥居が立っている。ふつうの神社なら参道の真正面に拝殿・本殿があるわけだが、鹿島神宮は東西に貫く参道の脇に北向きに拝殿・本殿が建っている。奥宮も参道の脇に北向きに建っている。これはなぜなのか。田中英道先生は、本来鹿島神宮の神は太陽そのものであったので、参道は太陽の昇って来る東に向いている、とする。「太陽を拝むことが本来の鹿島神宮の重要な祭祀の仕方だったことを思い出させる。建物などは二の次と言ってもよい」ということだ。
本殿が北向きに建っている理由は通常、北方からの外敵の脅威に備えるためとされているが、田中英道先生は「太陽をお守りするために北を向いている」と言われる。この意味は私にはなかなかわからなかったのだが、東から昇った太陽は南に回り、日中は基本的に南にある、故に本殿は太陽を背にして敵の前に立ち塞がるように建てられていると解釈したのが、どうだろう。
本殿の手前に建つ拝殿の前で方位磁石をかざすと、確かに本殿は北を向いていることがわかる。
因みに鹿島神宮の主祭神である武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)は本殿の中で東を向いて鎮座されているそうだ。見たかったが本殿は公開されていない。また、参道は東西とは言っても地図上で見るとずいぶんと右肩上がりになっている。この理由について若い宮司さんにお聞きしてみたのだが、書いたものが残っているわけではないのでわからないとのことであった。
東は夏至の太陽が昇る方向、西は冬至の太陽が沈む方向を向いているのではないかと私は想像し、日の出日の入りマップというサイト(https://hinode.pics/lang/ja/maps/sun)で試しに、令和3年6月21日の夏至のときの鹿島神宮における日の出日の入りの方角を調べると、日の出の方角は西の一之鳥居から参道を結ぶ直線の向きとぴったり一致した。鹿島神宮をつくった人々は、日が最も高く昇る夏至の日の出の方角に参道の向きを決めたのに違いない。因みに冬至は夏至の日の出日の入り方角を上下ひっくり返したものと同じなので、冬至には西の一の鳥居のところに日が沈むことになる。なお、東の一之鳥居はかなり北にずれており、参道の延長線上にはない。鹿島神宮ができた皇紀元年(紀元前660年)頃はこの線上に乗る位置に東の一之鳥居があったが、何らかの原因で海と陸の勢力分布が変わった結果、東の一之鳥居の位置を変えざるを得なかったのではないか、その後、この線上に東の一之鳥居を建てられるような海岸線になったが、元々の太陽信仰の意図を考えなかったためにその場所のままになっているのではないか、などと想像をたくましくするものである。
鹿島神宮御由緒
若干の補足をすると、上記「御由緒」に記されている御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)は、古事記では武甕槌神(たけみかづちのかみ)、日本書紀では建御雷神(たけみかづちのかみ)と表記されている。天上の国、高天原(たかまがはら)の天照大御神(あまてらすおおみかみ)が地上の国、葦原中国(あしはらのなかつくに)を支配しようと国譲りを迫るためにこれまで二柱の神を派遣したが役目を果たせず地上にいついてしまったために、剣豪・軍神である武甕槌神を出雲の国に派遣し、見事ミッションコンプリートとなったものである。
私は茨城県に引っ越してきて30年余りになるが、茨城県の観光地としては袋田の滝と筑波山しかないと長年聞かされてきた。ところが鹿島神宮は、皇紀元年創建、すなわち昭和、平成と連なる令和の今上天皇は第126代の天皇だが、その初代・神武天皇(じんむてんのう)の時代に創建され、しかも現代においても荘厳な森林のなかにたたずむ勅祭社(祭祀に際して天皇より勅使が遣わされる神社)であり、また戦前は、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の三神宮しかなく、そのなかで一番最初にできた鹿島神宮が茨城県の観光名所としてまともな扱いを受けていないのはどういうことなのだろうか。現在の高校日本史の教科書には、神武天皇すら載せていないことと通底するものがある。
これは私の邪推かもしれないが、戦後GHQの神道指令により、強い日本の源泉と彼らが考えた日本の起源をなかったことにするために教科書で神話が教えられなくなったその流れが戦後75年を経てなお続いているとのだと思う。つまり鹿島神宮を見てしまうと神話に繋がる素晴らしい日本の起源に日本人が気が付いてしまい、せっかくGHQが東京裁判史観(いわゆる自虐史観)の中に閉じ込めてしまった日本人が目覚めてしまわないよう、茨城県には見るべきところがほとんどないことにしてしまったのではないだろうか。
話が脇道にそれたが、鹿島神宮の見どころを写真でチェックしていこう。
鹿島神宮の見どころ
西の一之鳥居
北浦に面した大船津の水上に立つ。水上鳥居としては厳島神社のものを超える国内最大級の大きさだ。
鯰料理・鈴章
大鳥居手前の参道に面している創業明治30年の御食事処。参拝前になまずミニコース¥1,980で腹ごしらえ。なまず薄造り、なまず天ぷら、なまず照煮が出てくる。どれも美味しいが照煮が最高。なまずがこんなにうまい物だったとは知らなかった。鯰は境内の「あるもの」に因んでいる。
大鳥居
以前の石の鳥居としては日本最大を誇ったが、東日本大震災で倒壊し、境内の森(天然記念物)にある樹齢300年から600年の杉を4本、特別の許可を得て伐採し、再建されたものである。
楼門(重要文化財)
寛永11年(1634年)、水戸初代藩主徳川頼房公の奉納。頼房公は、水戸黄門・光圀公の父君。
茅の輪くぐり
∞の記号を描くように茅の輪をくぐる。
あらためてこの説明を見ると4回くぐることになっているが、最後の1回は∞を描き終わったと思ってやらなかった。失敗!!
拝殿
茅の輪をくぐって参道を歩くと、ふつうの神社と異なり、前述のように参道正面ではなく、「脇」に拝殿がある。
本殿(重要文化財)
一番手前の拝殿に続いて幣殿、石の間、本殿があるが、拝殿より奥へは入れない。これらは北向きに建っているが、御祭神・武甕槌神は本殿のなかで太陽が昇る東向きに鎮座している。
社務所
御朱印はこちらで頂戴する。御朱印帳を預けて、出来上がると出口の横にあるディスプレイに受付番号が表示される。受け取りにそれほど待ちはなさそうだったが、奥宮の方まで参拝した帰りでよいとのこと。奥宮の御朱印は、神官の方がご不在だといただけないとのことだったが、現在奥宮が令和の大改修中だったためか、こちらの社務所で鹿島神宮と奥院の両方の御朱印をいただけた。
奥参道・天然記念物鹿島神宮樹叢(じゅそう)
ここから先は、うっそうたる原生林のなかを歩く。この雰囲気が素晴らしい。
鹿苑
鹿は神のお使いであり、神鹿(しんろく)という。
鹿煎餅ならぬ人参を買った人だけが鹿に近寄れる。
何とかして人参にありつこうとすごい迫力で面白かった。
奥宮(重要文化財)
令和の大改修中で御神体は本殿前の仮殿に遷されていたが、工事期間中は奥宮の大床に御幣を据えることにより、工事中でも正規の奥宮の場所で参拝ができるように配慮されている。
奥宮の祭神は武甕槌大神荒魂である。荒魂(あらたま)とは神の荒々しい側面、荒ぶる魂のことだそうだ。
要石(かなめいし)
地震を起こす鯰の頭を押さえていると言われる要石。地表に少しだけ顔を出しているが、どれだけ地中に埋まっているかは水戸光圀公が七日七夜掘らせたが、掘り出すことができず顔に腫物が出来たためあきらめたとのこと。
要石は香取神宮にもあるが、鹿島神宮のは表面が凹んでいるのが特徴。
武甕槌大神が鯰の頭を押さえつけている石碑。これは最近建てられたもの。
御手洗池(みたらしいけ)
昔の人は、この池に浸かって身を清めてから参拝した。いくら人が入っても、どんな日照のときでも水位は変わることがないという。
御手洗公園を一周し、湧水茶屋・一休でひとやすみ。かき氷とわらび餅が来る前に古代米で作られたおむすびが無料で振舞われたのが嬉しかった。ここの他、要石方面と御手洗池方面の分岐点にはカフェーがあった。
さざれ石
帰路、鹿苑のそばにさざれ石があるのに気が付いた。国歌・君が代にうたわれるさざれ石だ。そして日の丸の碑。日本人は古来太陽を信仰の対象として崇拝していたことから国旗として制定された、ということと、日の丸の旗の歌詞が刻まれていた。
一. 白地に赤く日の丸染めて ああうつくしや日本の旗は
二. 朝日の昇る勢い見せて ああ勇ましや日本の旗は
二番があったことはこの碑を見るまで知らなかった。勇ましや、のところが嫌われて小学校の音楽教科書に載らなかったのだろう。はたして今の子供たちは少なくとも一番は教えてもらっているのだろうか。
「日の丸は戦前・戦中の軍国主義を思い出させる」という左翼プロパガンダで、学校でも日の丸を掲揚しない、君が代を歌わない、という問題があったが、現在、祝日に日の丸を掲げている家がほとんどないのは日本の起源を考えるに残念なことだ。そして一流だったはずの経済が没落して久しいが、二番のような朝日の昇る勢いを取り戻すためにも、教科書に二番復活をさせるべきではないだろうか。歴史教科書だけではなく、音楽教科書も問題なのである。
仮殿
奥宮のところで述べたが、改修中のお宮の御祭神が安置されている。奥宮だけではく鹿島神宮周辺の多くの神社の御祭神が安置されていることがわかった。
東の一之鳥居
鹿島灘に面した明石浜に立つ。防潮堤により景観が損なわれているが、時代の要請か。
御朱印
右が鹿島神宮・武甕槌大神和魂、
左が奥宮・武甕槌大神荒魂 の御朱印である。
荒魂が神の荒々しい側面、荒ぶる魂であることに対し、和魂は神の優しく平和的な側面とされる。
なお、国宝、全長2.7m超の神剣・直刀が見たかったのが、宝物殿が公開されていないために見ることができなかった。これはおよそ1300年前に作られたものだが、武甕槌神の手元に戻ることがなかった佩刀の二代目と解釈されている。
高天原
鹿島神宮御由緒の項で、天上の国・高天原と書いたが、鹿島神宮からクルマで10分ほどのところには高天原という地名がある。今回の目的地は3か所で、末社・潮社(いたのやしろ)、高天原の縦書きの案内板、高天原と鬼塚の案内板である。これは探すのが難しく、見つかった順に紹介する。
高天原と鬼塚 の案内板
下津(おりつ)通り沿いの草むらになにげなく立っている。後方には団地が見える。
案内板拡大。
田中英道先生は、高天原(たかまがはら)は神話の世界ではなく、実在したと考えておられる。実在した場所の可能性としてほかに富士山、筑波山を挙げておられるが、おそらく一番可能性が高いのが鹿島神宮近くの高天原という地名が残っているこの一帯と考えておられるようだ。高天原から葦原中国(あしはらなかつくに)へ神様たちが下られた天孫降臨は、実は天上の国から地上の国への垂直移動ではなく、関東の高天原=日高見国(ひだかみこく)から九州への水平移動だったのではないかと。このことについては、次の御朱印集め・息栖神社のなかで続きをお話しする。
高天原の縦書きの案内板
これはついに見つからなかった。カーナビで高天原と入力して出てくるところは、先ほどの「高天原と鬼塚」案内板の後方に見える団地の中だった。
Googleマップで調べるともう少し別の場所なので、その場所に行くと家と畑がぱらぱらとあるようなところで、若い娘さんが2人いたので尋ねてみた。(スマホの)地図の場所はここだけど、こんな案内板(上の写真)は見たことがないということで、すぐ目の前の家からお母様を呼んできてくれた。鬼塚に関しては佐竹氏の戦いで〇〇川は真っ赤に染まって、、、というようなことを語ってくれたのだが、この案内板は見たことがないということだった。
いまこのブログを書くために写真を拡大して見てみると、なんと「つくば市 つくば市観光協会」と書いてある!Googleマップで出てくる写真は鹿嶋市高天原ではなく、誤ってつくば市の高天原のものを掲載していたのだ。天照大神を祀る稲村神社があります、と書かれているのでこれはこれで今度行ってみよう。
潮社(いたのやしろ)
祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)。神武天皇が東征時に熊野山中で危機に陥ったとき、武甕槌神が葦原中国を平定したときの剣を高倉下命が神武天皇に届け、その剣の霊力により勝利、日本の勝利に貢献したとされる。
因みに、「高天原は関東にあった 」という田中英道先生の著書は、鹿島神宮のお守りやお札をいただける授与所にて販売されていた。ネットショッピングのAmazonでも買えるので、ご興味を持たれた方は読んでみてはいかがだろうか。
以上
(2021/7/26)