御朱印集め

御朱印集め(58) 白峯神宮

御朱印集め(58) 白峯神宮

 京都大学を5月15日に退官される宮沢孝幸准教授の最終講義を聴講するために京都を訪れた機会に、以前から訪問したいとリストアップしていた白峯神宮に参拝した。京都市の烏丸今出川から西へ10分ほど歩いた今出川通り沿いに鎮座する。

御由緒

 鳥居の右側に設置されていた上写真の御由緒は非常に簡単に書かれているが、鳥居の左側に設置されていた下写真の京都市の案内板には創建の経緯に触れられている。

 また本神宮のホームページには、スポーツの守護神・武道上達の神・上昇氣運の神と記され、私が参拝したときにも中高生の団体が次々に訪れ、蹴鞠に因んでサッカーの神様として崇められている様子だった。この地が蹴鞠・和歌の宗家飛鳥井家の邸跡だったためだが、以下に御祭神であられる崇徳天皇、淳仁天皇についてご紹介したい。

御祭神(一) 崇徳天皇

 作家・竹田恒泰氏が崇徳天皇(すとくてんのう)について「怨霊となった天皇」で著わされたように、崇徳天皇は死後、怨霊になったとして恐れられた。まず、この時代の皇統は、第72代白河天皇-第73代堀河天皇-第74代鳥羽天皇-第75代崇徳天皇-第76代近衛天皇-第77代後白河天皇の順に継承されたが、ここでは作家・百田尚樹氏著の[新版]日本国紀(上)、保元の乱の節を要約して紹介する。

 崇徳上皇は鳥羽上皇の子供ということになっているが、実の父親は鳥羽上皇の祖父の白河法皇だと言われている。つまり白河法皇が孫の妻と不倫して生まれた子が崇徳天皇(後に上皇)だったという。保安四年(1123年)白河法皇は鳥羽上皇を無理矢理に皇位から降ろし、四歳の崇徳天皇を皇位に就けた。鳥羽上皇の悔しい思いは如何ばかりだったか。白河法王が亡くなったあと鳥羽上皇の復讐が始まり、崇徳天皇を皇位から降ろし、二歳の体仁親王を近衛天皇とし、自らは法王となる。しかし近衛天皇は十六歳で亡くなり、崇徳上皇は自分の息子を天皇にしてくれることを期待するが鳥羽法皇は今度は崇徳上皇の弟である後白河を天皇にする。後白河と崇徳上皇は同じ母から生まれた兄弟だが、崇徳上皇の実の父は白河法皇、後白河天皇の父は鳥羽法皇である。つまり鳥羽上皇は実の息子を天皇にし、崇徳上皇が治天(上皇が院政を敷くための治天となるためには、現天皇の父や祖父でなければならない)となることを防ぎ、その血を受け継ぐものを権力から排除したのである。

 ここまでが保元の乱の伏線で、実際の乱に発展したのは、兄弟で実権を争っていた藤原忠通(兄)と頼長(弟)が絡んでいたことも関係し、左大臣の頼長は崇徳上皇に、関白の忠通は鳥羽法皇についていた。保元元年(1156年)崩御した鳥羽法皇の屋敷に赴いた崇徳上皇は門前払いの扱いを受け、さらに後白河天皇方は、武士の源義朝や平清盛を味方につけて崇徳方を挑発するに至り崇徳上皇の積年の恨みが爆発した。そんな崇徳上皇に藤原頼長が武力による権力奪取を勧め、蜂起を決意した崇徳上皇と藤原頼長は武士の源為義、為朝(父子)、平忠正などを味方につけた。実は敵味方に分かれた源為義と源義朝は親子であり、平忠正と平清盛は叔父と甥の関係だった。ちなみに崇徳上皇と後白河天皇は兄弟、藤原忠通と藤原頼長も兄弟、つまりこの争いはまさに骨肉の争いだった。結局崇徳上皇側は一夜にして壊滅、崇徳上皇は讃岐に流された。讃岐に流された崇徳上皇は反省を込めて写経して都に送るが朝廷はこれを受け取らずに返送。怒りに震えた崇徳上皇は自ら舌を噛み、その血で経典に「われ日本国の大魔縁となり、皇(おう)を取って民とし民を皇となさん」と書いた。怨霊となって皇室をつぶすと宣言したのだ。以降、崇徳上皇は髪も爪も伸ばし放題になり、異形のまま、その地で崩御した。白河上皇の不倫によって生まれた悲劇の天皇だった。

 白河法王の不倫話は公文書の記録になく鎌倉時代に編まれた「古事談」にしか書かれていないため歴史学者の間では公式には事実と見做されていないが、何人かの学者は事実であろうとしている。崇徳天皇は日本史上最大の怨霊とされており、死後に都で様々な異変や凶事が起こったからだが、最も大きな災いは、「皇を取って民とし民を皇となさん」という崇徳天皇の宣言が実現したことだ。実際崇徳上皇の死後まもなく、武家出身の平清盛が天皇や皇族に取って代わって政治の実権を握ることとなった。平氏が倒れたあとも朝廷に実権は戻らず、政権は鎌倉幕府、室町幕府へと移り、天皇が政治の実権を回復するのは、明治維新まで七百年も待たなければならなかった。明治元年(1868年)、明治天皇は即位の礼の際、京都に白峯宮(現在の白峯神宮)を創建し、崇徳上皇の御霊を七百年振りに讃岐から京都へ帰還させ、怨霊との和解をはかったということだ。(百田尚樹氏著 日本国紀からの引用・要約ここまで)

 長くなったが、本新宮の御由緒、京都市の案内板に書かれていなかった物語をどう思われるだろうか。

御祭神(二) 淳仁天皇

 まず、この時代の皇統は、第46代孝謙天皇-第47代淳仁天皇-第48代称徳天皇(重祚)となっている。重祚というのは、退位した天皇がもう一度天皇になることで、孝謙天皇と称徳天皇は同一人物で女性天皇である。もちろん男系の女性天皇である。 

 久野潤氏の「神社で蘇る日本2600年史 古代の英雄編」(ダイレクト出版の動画コンテンツ)によると、僧の道鏡が孝謙上皇に取り入るなか、天平宝字八年(764年)、対立した太政大臣藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事準備を始めた事を察知した孝謙上皇は、これを制圧し、仲麻呂は殺害された。同年十月には淳仁天皇を廃して大炊親王とし、淡路公に封じて流刑とした。淳仁天皇の廃位によって孝謙上皇は事実上皇位に復帰し、以降は称徳天皇と呼ばれる。

 淳仁(じゅんにん)天皇については、御朱印とともに頂いた白峯神宮御由緒(略)に記載されているものをそのまま引用する。

 淳仁天皇は、「日本書紀」編纂の舎人親王の皇子として天平五年(733年)御降誕になりました。天平宝字二年(758年)第47代の天皇に御即位になり、藤原仲麻呂をして官制の改革・租税の軽減・通貨鋳造・窮民救済などの仁政を広く敷かれましたが、弓削道鏡らの謀計により御廃位となり、淡路島に御配流。天平神護元年(765年)崩御、淡路陵に奉葬されました。和気清麻呂公は、道鏡の専横を撃つべく宇佐八幡の神託を得ての帰路、淡路島に秘かに参って事の由を奉告したと伝承されています。(引用おわり)

 道鏡の謀計と和気清麻呂公については、御朱印集め(18) 和氣神社と御朱印集め(31) 宇佐神宮のなかの護王神社をご参照されたい。

境内

 (境内の案内図は、白峯神宮ホームページ(https://shiraminejingu.or.jp/)より引用)

 

 

飛鳥井・手水舎

拝殿・本殿

 神門を通して、拝殿、拝殿を通して本殿が見えている。本殿は中高生が大勢いたので、あとで撮ろうと思って忘れてしまった。なお、案内図で拝殿とされているところは神楽殿のようなところで、本殿とされているところは拝殿のように思うのだが。

 

蹴鞠の碑

 毬の部分は中高生たちがぐるぐる回していた。

毬庭

崇徳天皇欽仰之碑

 小倉百人一首に収録されている崇徳天皇の和歌。

 「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」

 この歌の意味について百田尚樹氏は、「一般的には恋人との再会を願う歌と解されていますが、実のところはやがては皇統が一つになってほしいという願いが込められたものだったでしょう」と前述の日本国紀のなかに書かれている。

地主社(じしゅしゃ)

御祭神 精大明神 他(スポーツ・球技・芸能上達守護)

 サッカーワールドカップ大会に使われたボールなどが奉納されていた。

 

伴緒社(とものをしゃ)

御祭神 源為義公・源為朝公(武道・弓道上達)

潜龍社(せんりゅうしゃ)

御祭神 潜龍大神(悪縁を水に流し良縁と成す・事業隆昌)

御朱印

京都大学・宮沢孝幸准教授の最終講義

 白峯神宮を参拝するきっかけとなった京都大学・宮沢孝幸准教授の最終講義についても少し触れておきたい。京都大学百周年時計台記念館で行われた。 

 宮沢孝幸先生は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)について、ウイルス学者の立場から科学的な知見をもとに信念をもって情報発信を続けて来られたが、恐らくこのことが仇となって京都大学を退官することになってしまったようだ。2時間にわたる最終講義の最後に先生がおっしゃった言葉のなかから、私の胸に響いた言葉を三つ挙げておきたい。

 ・頭の良い人こそ国全体のことを第一に考えてほしい。

 ・自分がやらなければならないことから決して逃げないでほしい。

 ・常識を常に疑え、論文や教科書を鵜呑みにしない。

 宮沢先生の京都大学退官は不本意なものであったに違いない。しかし、先生自身も仰っていたように、60歳で大学を離れて新しい世界に入れるのはよいことなのかもしれない。信念を曲げずに、日本のために発信を続けたために敵も多い先生だが、万一この状態で亡くなりでもしたら、死後、怨霊になって現れるかもしれない。そうならないように、日本の学界、政治家、マスコミ、医療・医薬品業界が、そして世界の学界が宮沢先生の発信が正しかったことを認識するときが遠からず来ることを願いたい。

以上

(2024/5/13)