御朱印集め

御朱印集め(17) 鹿児島神宮

御朱印集め(17) 鹿児島神宮

 鹿児島県霧島市隼人町にある大隅國一之宮 鹿児島神宮は、静かな佇まいである。

御由緒

御祭神

・天津日高彦火火出見尊(あまつひこひこほほでみのみこと=山幸彦)

・豊玉比売命(とよたまひめのみこと)

相殿神

・帯中津比子命(たらしなかつひこのみこと=第14代仲哀天皇

・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)

 仲哀天皇の皇后で、お腹に子を身ごもった状態で新羅遠征を行った。帰国後に生まれた子が後の応神天皇。

・品陀和気尊(ほんだわけのみこと=第15代応神天皇、八幡大神)

・中比売命(なかつひめのみこと=応神天皇皇后)

 古事記によると応神天皇は10名ほどお妃がいらした、そのうちの品陀真若王の娘三人のうちの一人。

 

ご系譜

 彦火火出見尊(山幸彦)は、父が天孫降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、子が海幸彦から借りた釣り針を探しに出た海の宮で出会った豊玉姫との間にできた鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、孫が神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと 初代神武天皇)である。

 

 田中英道先生は、次のように仰っている。

 鹿児島神宮は天降川から鹿島の大船団で上ってきた邇邇芸命(ににぎのみこと 瓊瓊杵尊)がずっと居られたところだ。海幸彦(兄)の釣り針をなくして山幸彦(弟)が困っていたところを塩土老翁(しおつちのおじ)に送り出されて綿津見神宮(わだつみのかみのみや 海の宮)に行き、そこで釣り針を見つけてもらった。それを海幸彦に返しても海幸彦は許さず、悩んだ山幸彦は、綿津見神にもらった潮盈珠(しおみつたま)と潮乾珠(しおふるたま)を使って(海幸彦に)勝ってしまうというお話である。

 非常に象徴的な日本の神話の物語であって、つまり海からやって来た人たちが山に登るということ。日高見国から船でやって来て、鹿児島に着き、日向から大和に行くという過程をみることができる。また鹿児島神宮もそうだが、海に近いために日本がいかに海との関係が強いかということも物語っている。鹿児島神宮は日高見国の鹿島から鹿児島へやって来た人たちが上陸し、この地に地盤をつくり、三代目の神武天皇が東征を行った。

 神宮からいただいた由緒書にも書かれているが、山幸彦は彦火火出見尊というが、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)という名も持っている。この名には「日高」が入っている。これはもう明らかに日高見国から来たことを示していると思う。

菊の御紋

拝殿

本殿

 本殿は改修中のため見られず。

石灯篭

 本殿は見ることができなかったが、拝殿正面の切妻、石灯籠に天皇家の御紋である、菊花紋を見ることができる。

 田中英道先生は、この御紋は実は太陽を表わすと見ておられる。太陽を表わすということは、日高見国あるいは高天原の天照大御神と関係しているわけで、もともと日高見国から来た人たちが定着した、住んだ場所ということだと見ておられる。本殿の(光や雷を表わす)千木の下の切妻のところに菊の御紋があり、その下に雲が描かれているので、これは明らかに天照であり、太陽の印ということがわかる。

 本殿の写真は撮れなかったが、拝殿の写真を見ても、菊の御紋の下に雲という同様のデザインであることがわかる。

御朱印

 

石體神社

 鹿児島神宮の摂社、石體神社(いわたじんじゃ)。鹿児島神宮からクルマで数分のところにある。

御由緒

 当石體神社の位置は、御祭神日高彦穂穂出見尊、豊玉比売命が都として高千穂宮を経営された正殿の在った所で、そのまま社殿として祀ったもので、鹿児島神宮の起こりでもあります。和同元年(708年)、現在の鹿児島神宮の位置に遷り、その跡に社殿を造ったのが石體神社であります。

と御由緒にある。また、

 御妃は御子・鸕鶿草葺不合尊を鵜の羽で葺く産床の葺き終えないうちにお産みになったほどお産の軽かった方で、現在、御本殿の前の石塔に小石が沢山ありますが、御神体の代わりにその一つを頂いて、お産後は一つ加えてお返しをする慣習があります。岩田帯はこの石體神社(いわたじんじゃ)より出た言葉と言う説があります。

とのことだ。

「日高彦穂穂出見尊、豊玉比売命が都として高千穂宮を経営された正殿の在った所」と御由緒に述べられているが、これは神武天皇の建国より二代遡った時代のことで、神武天皇不在説とかで現代の日本史教科書に神武天皇の御名前すら載っていないが、この土地にはそういう伝承があるからこそこのように御由緒となっているのではないか。

 

卑弥呼神社

 石體神社と小径をはさんで、卑弥呼神社(ひみこじんじゃ)はある。

 

 神社では、「御由緒」という表題のもとに、その神社の成り立ちや御祭神が述べられているが、卑弥呼神社はその表題がなく、またいつできたかも記載がない。実際には昭和57年(1982年)にできたそうだ。像まで建てられている。

 

 田中英道先生は、「邪馬台国は存在しなかった」(勉誠選書)という著書のなかで、概ね次のような趣旨のことを述べておられる。

 邪馬台国、卑弥呼については中国の物語・三国志のなかの魏志倭人伝の中に記述をがあるだけで、日本書紀、古事記、各地の風土記などどこを探してもそのような記述は一切ない。卑弥呼が一国の女王というなら神社くらいあってもよさそうだが、あるのは昭和になってつくられたものが九州の鹿児島神宮のそばにあるものだけで、伝承も全くないため、存在しなかったと考える。

 また、先生はこの卑弥呼神社を訪れた際に、神社の前の説明に「卑弥弓呼が彦火火出見尊(山幸彦)と密に関係があり」と書かれているのを見て、これは重大な誤りだと指摘されている。山幸彦は紀元前の話で、神武天皇の東征のはるか前である。「魏志倭人伝」による卑弥呼は紀元後3世紀なので全く時代が異なり、歴史的に誤りだということがわかる。

 世の中の歴史学者は文字資料信仰が強く、文字になっているものしか信用しない、文字になっていれば信用する、よって魏志倭人伝の内容を信用する、という学者の劣化について強く指摘する田中英道先生の意見に私は賛同する。

 陳寿という日本に来たこともない人が三国志という物語のなかの一部に日本紹介として伝聞を適当に書いたものを、2600年つづく皇統を否定したい戦後の左翼学者がありがたがって、邪馬台国・卑弥呼説を広め、そのブームに乗って卑弥呼神社は建てられたわけだが、私は敢えて、その現場を確認しに来たものである。

以上

(2021/11/26)