御朱印集め

御朱印集め(18) 和氣神社

御朱印集め(18) 和氣神社

 道鏡の皇位簒奪を命がけで阻止した和気清麻呂公を祀る和氣神社(わけじんじゃ)を訪れた。鹿児島県霧島市牧園町に鎮座する。国道223号から、かなり細い山道の県道470号に入り、さらに暗い細道に分かれて上ってゆくと行き止まりの開けたところにある。写真は狛犬の位置づけに建てられている狛猪。

 この神社は、歴史学者/大阪観光大学講師である久野潤先生が解説されている「神社で蘇る日本2600年史 古代の英雄編」(ダイレクト出版)という動画コンテンツで知り、是非訪れたいと思っていたところ、今回の鹿児島・宮崎神社巡りのなかにうまく組み込めることがわかったので訪問したものである。

御由緒

御祭神

 和氣清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)

神号

 護王大明神(ごおうだいみょうじん)

道鏡事件とは

 宇佐八幡宮神託事件とも呼ばれる。769年(神護景雲3年、宇佐八幡宮(現・大分県)において「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という神様からのおつげ(神託)が出された。道鏡は、称徳天皇(女性天皇)に取り入り、僧籍のまま太政大臣の地位にまで上りつめ、皇室の血を引いているものしかなれない天皇の地位を簒奪しようとしたのだ。

 この御神託の真偽を確かめるために称徳天皇の命令を受けた和氣清麻呂は道教の手の者による暗殺の恐れもあるなか、宇佐八幡宮へ向かった。そして授けられた御神託は、このような内容だった。

 我が国は開闢この方、君臣の分は定まれり
 臣を以って君とすること未だあらざるなり
 天津日嗣は必ず皇儲を立てよ
 無道の人は宜しく早く掃除すべし

 都に戻った和氣清麻呂が、このことを道鏡の視線が注がれるなか天皇に奏上すると、一同騒然となり、道鏡の怒りを買って大隅の国に流罪となった。その後、道鏡の後ろ盾であった称徳天皇が崩御されると、やはり貴族の間で不満があったらしく、道教は下野の国に左遷され、和氣清麻呂は都に呼び戻された。和氣清麻呂は、称徳天皇崩御のあと、光仁天皇を経て桓武天皇の御世の平安京遷都の際に、平安京造営の長官となって千年の繁栄の基礎を築かれた。

 ということで、道鏡による皇位簒奪の阻止、平安京造営という二つの大きな功績があった方で、戦前の教科書では必ず教えられ、十円札に和氣清麻呂公の肖像と護王神社が印刷されていたのだ。戦後は、GHQの神道指令による日本弱体化計画により、このような事実は教科書からかき消され、当然お札からも消え、なかったことにされてしまったのだ。(以上の道教事件の解説は、前述したダイレクト出版のコンテンツから要約、引用した。)

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大絵馬

 写真右端の「日本一の大絵馬について」という説明板に、「平成最後の年、新元号となる御代がわりの亥年は、和氣公大隅国配流1,250年の節目の年で、これを新しい日本一の大絵馬で迎えようと、前作と同じく宍野寛先生の原画で全面カラーで製作を始めた。猪は和氣公を守護して道案内をしたという「日本後記」の伝承により、神の使いとして、また「開運招福」の守護、「交通安全」の守護として崇められている。」ことが記載されている。

鳥居

白猪 和気ちゃん

 

拝殿

 

本殿

 奥の方の屋根にX字状の千木が見える建物。

 

 坂本龍馬とお龍の新婚旅行は有名だが、この辺りを訪れていたのだ。

御朱印

 「我獨慙天地」は、和氣清麻呂公のお言葉で、「われひとりてんちにはづ」と読む。この言葉は、世の中の人がどうあっても、自分一人だけは天地の澄みきった心に照らして恥じることのないように、また自粛自戒を心がけ、謙虚に正しい道を歩もうという、公の心境をよく表している。清麻呂公はその名と通り、清らかにして、私利私欲なく、誠の心をもって公事と民事に尽くした(和氣神社御朱印授与時にいただいた説明書きより)。

 

以上

(2021/11/27)

(2021/12/16 誤字修正しました。✕道教→〇道鏡)