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御朱印集め(11) 出雲大社
島根県出雲市大社町にある出雲大社(いづもおおやしろ)に参拝し、日本の起源に思いを馳せた。
この旅は、御朱印集め(2)鹿島神宮、(3)息栖神社、(4)香取神宮にひきつづき、田中英道先生の「神話で読み解く日本の起源史 聖地探訪・日本神話の歩き方」(ダイレクト出版)の足跡を辿ったものだ。
境内は相当広い。下写真の案内図一番下の神門通りを下っていくと宇迦橋の大鳥居(一の鳥居)があるのだが、ちょうど出雲駅伝のための交通規制でクルマでくぐる予定が通れなかった。そこで、古代出雲歴史博物館に駐車し、出雲わんこそば昼食を摂った後、上写真の勢溜の鳥居(せいだまりのとりい=二の鳥居)から歩きはじめ、本殿の周囲を反時計回りに一周し、左側にある神楽殿の大しめ縄を拝んで一時間半で戻ってくる計画だ。その後、土産物購入、古代出雲歴史博物館見学、国譲り神話の舞台である稲佐の浜、屏風岩を見て、日没後の6時に「はたごの宿小田温泉」到着というハードスケジュールだ。茨城から行くと出雲空港着11:35が最速なのでこうなってしまう。実は寝台特急サンライズ出雲が10時前に着くのでだいぶ早いが、これは超人気列車で2回チャレンジしたが予約が取れなかったのだ。
中の鳥居(三の鳥居)。鳥居から先は、松の根の保護のために参道の中央は通行禁止になっている。
銅鳥居(四の鳥居)。
御由緒
御祭神: 大国主神(おおくにぬしのかみ)
「だいこくさま」として慕われている大国主神である。
以下、田中英道先生の解説に沿いつつ、古事記(竹田恒泰著・現代語古事記)のエピソードを交えて記す。須佐之男命(すさのおのみこと)が高天原(たかまがはら)から追放され、斐伊川(ひいがわ)で、毎年ひとりずつ生贄として差し出されて最後に残った八番目の娘である櫛名田比売(くしなだひめ)を助けるために八俣の大蛇(やまたのおろち)と戦った。助ける代わりに娘を献上しろという須佐之男命に対して名を尋ねると、天照大御神(あまてらすのおおみかみ)の弟と名乗ったために、娘の父神である足名椎(あしなづち)と母神である手名椎(てなづち)は、それならとすぐに差し上げたのである。須佐之男命は、娘の姿を櫛に変えて頭に挿して八俣の大蛇と戦ったという駄洒落のようなエピソードが記されている。強い酒を大蛇に飲ませて寝てしまったあと大蛇をやっつけた十拳剣(とつかのつるぎ)が刃こぼれしたので見ると、大蛇の尾から神々しい剣が出て来た。これが草薙の剣(くさなぎのつるぎ)で、須佐之男命は天照大御神に献上し、やがて皇位の印である三種の神器となる。
大国主神というのは、須佐之男命が出雲にやってきて、六代目だと言われている。大国主神は国の主として活躍した。立派な人で決してよくばったりはせず、少年時代は兄たちにいじめられた因幡の白兎を助けたり、末弟である自身も兄たちにいじめられたりと、なかなか大変な目にあったが、非常に人柄がいい立派な人で、国を治めるべき方だった。
しかし後になってこの国も高天原の国にすると天照大御神は考え、「国を譲りなさい」と言う。この国譲りの神話は重要な神話で稲佐の浜において、建甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神 (ふつぬしのかみ)と、大国主神の息子である建御名方神(たけみなかたのかみ)との決闘があった。
出雲大社とこの近辺が、高天原の天津神(あまつかみ)と葦原中国(あしはらのなかつくに)の国津神(くにつかみ)という、天上と地上の戦いのようなところが出てくる。これは田中英道先生のお考えでは(地上の)東国と(地上の)西国とのある意味での争いということになる。つまり神話ではなく実際にあった歴史ということだ。
基本的にこの後に天孫降臨があり、その前触れというか、その前の高天原がいかに西の方を結びつくかと言う意味でも、この出雲大社は大変重要な存在であるとのことだ。
戦後教育を受けて来た、つまり神話教育を全く受けて来なかった私にとっては先入観がないこともあり、田中英道先生の上記のような見方は確かにそうではないか、と受け入れることができる。戦後の左派の学者達は、古事記・日本書紀は天皇家がその正当性を示すために作った偽書である、ということを言っているようだが、古事記を読んでみても、正当性を示すためだけなら書く必要がないような、負のエピソードもたくさん入っているため、古事記の編纂者が想像で書いたものではなく、相当遡ったところから実際に起きたことを書いたに違いないと思うことができる。
なお、出雲大社の公式参詣案内パンフレットに記載されている御由緒を以下に示す。
この公式パンフレット上の御由緒にも「えんむすび」の神ということが書かれているが、古事記を読むと大国主神は各地に出張するたびに現地で妻をつくる今でいうモテ男だったようだ。これは現在の価値基準ではいけないことになってしまいそうだが、各地の豪族と血縁関係を作ってその支配を安定化させるという意味があるようだ。
ムスビの御神像
大国主神が、この国を治めるようにということで、天照大御神から玉を授かる場面を表現した彫刻。銅鳥居の手前右側にある。
拝殿
素晴らしいしめ縄が掛けられている。神を祭る、神を結ぶ、ひもで回りを囲う、そういう神域をつくるという意味でも、このしめ縄は重要な意味を持つと言う。
宝物殿
巨大神殿が立っていた証拠となる、発掘された直径1.1mの柱を3本束ねた宇豆柱や、巨大神殿の再現模型などが展示されているが、撮影禁止だった。同様のものは、隣接する敷地にある古代出雲歴史博物館に展示されており、こちらは撮影可だったので、後ほど紹介する。
本殿
奥の方に、千木(屋根から空に向かって突き出ているX字型のもの)が見えるところが本殿、その手前が楼門、一番手前が八足門だ。これは南に向いた正面だが、後ほど西側からの写真を紹介する。
八足門の階段下の石畳上に表示された宇豆柱の大きさ。大国主命は国を譲る条件として、大きな神殿をつくることを要求した。現在の神殿は髙さ24mだが、当初の神殿の高さはこの柱の太さから、高さ48mとも96mとも言われている。
十九社(じゅうくしゃ)
全国的には神無月と言われる出雲の神在月に、全国から神々が集まって来られたと際のお宿となる細長い建物。わざわざこんな建物があるのは神話と言っても私には実際にあったこととしか思えない。
御祭神: 八百萬神(やおよろずのかみ)
釜社(かまのやしろ)
御祭神: 宇迦之魂神(うかのみたまのかみ)
須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ)の間にできた子神で食物を司る、全国にある稲荷社の御祭神。御朱印巡り(6)の笠間稲荷神社にもいらした。
神魂伊能知比売神社(かみむすびいのちひめのかみのやしろ)
御祭神: 蚶貝比売命(きさがいひめのみこと)、蛤貝比売命(うむがいひめのみこと)
蚶貝比売命・・・・赤貝を擬人化させた神
蛤貝比売命・・・・蛤を擬人化させた神
大国主神がその名がまだ大穴牟遅神(おおむなちのかみ)であった少年時代に、いじめられ大やけどを負って亡くなられたときに、その死を知った母神の刺国若比売(さしくにわかひめ)は、天に昇って神産巣日之命(かむむすひのみこと=天地初発のあと最初に成った造化三神のうちの一柱)に息子を助けてくれるように頼んだところ、地上に派遣されたのがこの二柱の神。蚶貝比売命が削り落とした赤貝の粉を集めて蛤貝比売命がそれを待ち受けて蛤(はまぐり)の汁に溶いて薬を作った。これを大穴牟遅神の体に塗ると、たちまち立派な男に戻り、すっかり元気になったと古事記にある。
大神大后神社(おおかみおおきさきのかみのやしろ)
御祭神: 須勢理毘売命(すせりひめのみこと)
素戔嗚尊(すさのおのみこと=須佐之男命)の娘神で、大国主神と最初の夫婦になった。御仲も睦まじく御本殿の東側に接して御鎮座されているということで、勢力を安定化させるための結婚ではなく純愛の夫婦であったのだろう。
素鵞社(そがのやしろ)
本殿の裏側にある。
御祭神: 素戔嗚尊(すさのおのみこと=須佐之男命)
既に述べたとおりだが、上記の御由緒にあるように三貴子(天照大御神、月読命、素戔嗚尊)中の一柱であり、天照大御神の弟神にあたる。
妻は奇稲田姫(くしなだひめ)と書かれているが櫛稲田比売(くしなだひめ)もしくは稲田比売(いなだひめ)と同じである。
西の遥拝所
下写真の左端の建物が本殿で、大屋根の右下にある傾斜のついた小屋根は、本殿に昇る階段にかかる屋根である。
そして周囲にめぐる塀(瑞垣)のもう少し右の方に、西の遥拝所がある。ちょうど本殿内部の御神座の正面にあたるところに御賽銭箱があり、その右隣に説明板がある。賽銭箱に御賽銭を入れて遥拝をしたのだが、写真は説明板の方しか撮っていなかった。
説明板に書かれているとおり、本殿の建物自体は南を向いているが、御神座の大国主神は西を向いておられる。これはどういうことかというと、田中英道先生のお考えでは、出雲大社と鹿島神宮の間には強い結びつきがあり、鹿島神宮の建甕槌神(たけみかづちのかみ)が東を向いているのに対応して、出雲大社の大国主神は西を向いているということだ。
元々鹿島神宮は太陽を拝むための場所なので東を向いており、それならば出雲大社は太陽が沈む西を向いているということなのだろうか。
なお、田中英道先生は、多くの学者、あるいは神社の方も、やはり九州の方を向いていると言われており、ご自身のは新しい考えとして、高天原が関東、東北にあった、そしてこの出雲大社が西の代表としてそれに対応していて、まっすぐの線で結ぶことができるとされている。
(注. 位置関係に関する考えは、出雲大社の公式見解ではない。)
神魂御子神社(かみむすびみこのかみのやしろ)
御祭神: 多紀理比売命(たきりひめのみこと)
天照大御神と素戔嗚尊とが誓約(うけい)をしたときに、天照大御神が素戔嗚尊の帯びていた十拳剣を打ち折り、勾玉を真名井の水ですすぎ、噛みに噛んで吹き出した息の霧に成った神。誓約というのは、予め決めたとおりの結果が現れるかとうかで吉凶の判断をする占いの一種で、このときは天照大御神が「あなたの心が清明なることをどのようにして知ることができるか」と仰せに成ったのに対して素戔嗚尊が「お互いに誓約をして子を生みましょう」と提案をしたのであった。息の霧に成ったので、男女の交わりから生まれたのではない。
胸形の興津宮に鎮座していた多紀理比売命は、この土地に来られた大国主神に娶られた。御本殿の西側に鎮座ということで、先ほどの須勢理毘売命が特別なのかと思ったら、本殿東西に接して鎮座なので同格なのか、それとも相撲と同様に東の方が格が上なのだろうか。
因みに古事記にはこんなことも書かれている。「大国主神は須勢理毘売命の嫉妬に悩まされながらも、その後、領土を広げながら三人の妻をお迎えになり、子孫を繁栄させました。地方の権力者の娘と結婚することは、その土地の霊力を手に入れることになると考えられていました。」
氏社(うじのやしろ)
御祭神: 天穂日命(あめのほひのみこと)
天照大御神と素戔嗚尊とが誓約(うけい)をしたときに、素戔嗚尊が天照大御神の右のみづらに巻いてあった勾玉を真名井の水ですすぎ、噛みに噛んで吹き出した息の霧に成った神。
氏社(うじのやしろ)
御祭神: 宮向宿禰命(みやむきのすくねのみこと)
出雲国造(いづもくにのみやっこ=出雲大社宮司家)の祖神天穂日命の第十七代の裔と記されており、現在の宮司までその血筋はつながっているそうだ。
神楽殿(かぐらでん)
神楽殿に掛かるしめ縄は、拝殿のものより大きい。
御朱印
出雲大社
出雲大社神楽殿
古代出雲歴史博物館
出雲大社の東側、徒歩5分ほどのところにある。この季節は18時まで開館しているが、土産物屋が17時閉店のため、その後に稲佐の浜で夕日を見るという目的もあるため、滞在時間40分の駆け足となってしまった。
宇豆柱(うづばしら)
本殿前面中央に位置する柱。材質はスギ材で、それぞれの柱の直径はおよそ1.3mで、最も年輪のあるもので、樹齢195年と推定されるとのこと。これは2000年に出土したもので鎌倉時代(1248年)のものだが、古代にも存在していたということで、神話が歴史の中にあったということだ、と田中英道先生は言う。私としてはこんなに昔のものが、木質そのままに出土したことに驚いた。
心御柱(しんのみばしら)
本殿中心に位置する柱で、宇豆柱より一回り大きく、3本のうち北側に位置する柱の直径は1.4mある。これは複製品。
出雲大社本殿模型
平安時代の出雲大社本殿を1/10スケールで復元した模型だ。実際には高さ48mくらいあったことになる。写真右後方には、4名の博士が1/50スケールで復元した模型が展示されており興味深い。
本殿下から見上げると、まさに雲を突くような建物であったのだろう。何のためにこれだけの塔が建てられたのか。田中英道先生によると、やはり太陽の塔、太陽に近づくということだろうと言う。そして、須佐之男命が天照大御神から海を司ることを命せられ、出雲に降ったのは、こちらの海が外国に近い海だからで、須佐之男命が出雲を統治し、大国主神が継いでかなり強い国家ができていた。そこに国譲りの試みがなされ、その代わりに神殿を造るということになった。一方でこの神殿が外国に対しても高い塔を見せるということで、この国が素晴らしい統一された、立派な国であることを見せたとも言える。
荒神谷遺跡出土銅剣
出雲大社の東方約15Km、出雲空港の南西約5Kmのところにある荒神谷(こうじんだに)遺跡から出土した358本もの銅剣がきれいに展示されている。荒神谷遺跡も行きたかったが、時間が許さなかった。
ひとつひとつの銅剣の下部には×印がつけられている。
国譲りをさせるために出雲に派遣された、建甕槌神(たけみかづちのかみ)が、大国主神の息子の建御名方神(たけみなかたのかみ)を圧倒し、ほとんど戦わずして国を譲ったことが、この×印をつけた銅剣からわかる気がすると言う。建甕槌神が強かったのは、武神・剣豪だから当然でもあるが、高天原は関東・東北にあったので、砂鉄を使った製鉄が進み、鉄剣を持っていたということが大きいと考えられるそうだ。鉄剣と銅剣では勝負にならないのだ。
加茂岩倉遺跡出土銅鐸
加茂岩倉遺跡は、荒神谷遺跡の東南東3Km余りのところにあり、39もの銅鐸(どうたく)が出土した。
埋められていた様子を再現したもの。
銅鐸は象徴的な意味合いを持っており、この地方の勢力がこれを提出することによって天照大御神、あるいは東国勢に譲ったという象徴的な贈与であっただろう、ただ、贈与して埋めているのは、自然に返すということ、つまり天照大御神や高天原勢がそれを奪うのではなく、こちらの人たちがそれを譲る、贈与するということを自然に行ったと言う。
三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)
田中英道先生は、この鏡に興味を示しながらも、邪馬台国は魏志倭人伝の記述が不正確で、日本書紀や古事記をはじめとする日本の文書に全く書かれておらず、邪馬台国や卑弥呼に関わる伝承も全くないことから、邪馬台国の存在を否定されており、したがってこれが卑弥呼の鏡であるということには疑問を呈されている。私も、「邪馬台国は存在しなかった」(田中英道著)を読んだが、確かにそのとおりだと思った。だいたい、邪(よこしま)とか卑(いやしい)とか悪い意味の漢字が使われている時点で、学校で習った頃から怪しいとは感じていた。
馬上の大首長
6世紀後半、大刀や馬具が最もきらびやかであった時期の出雲西部の大豪族の装いを出雲市の上塩冶築山古墳の出土品から復元し、身につけた冠や大刀、馬に付けられた馬具は、いずれも大和朝廷への奉仕に対して与えられたもので、彼が出雲西部で最高位の豪族であることを大和朝廷が認めるものであったということが説明板に書かれている。
稲佐の浜
稲佐の浜は出雲大社から西方へクルマで5分ほどのところにある。国譲りのときに、建御名方神が建甕槌神と戦った場所だ。
建御名方神が「我が国にやってきて、こそこそと隠れて物を言うのは一体誰だ。ならば力比べをしてやろうじゃないか。私が先に手を取ってみせよう」と言いました。ところが、建御雷神(たけみかづちのかみ=建甕槌神)がその手を取らせると、その手はたちまち氷の柱に変化し、さらに剣となって建御名方神を襲おうとしたのです。これに驚いた建御名方神は怖れて退きました。
ということで諏訪の地まで追い詰められ、そして諏訪神社の御祭神として祭られるようになった。しかし、「その手はたちまち氷の柱に変化し」という場面は、映画「ターミネーター」の戦いの場面を思い起こさせ、もしかしたらターミネーターの作者は古事記を読んでいたのではないかと思うくらいだ。
夕陽がきれいで、縁結びの出雲大社のそばなので、弁天島の祠の下の浜辺は、若いカップルのデートスポットにもなっているようだった。
屏風岩
稲佐の浜から海岸沿いの道路を挟んで3分ほどの目立たないところにある。
出雲の国を造られた大国主命と高天原からの使者として派遣された武甕槌神(建甕槌神と同じ 文字がなかった頃の神様の名前の発音に漢字をあてているのでいろんな書き方がある)は、この岩陰で国譲りの話し合いをされました。戦うことなく笑顔で国譲りをされた大国主命の「和を尊し」とする心は、今もなお出雲の人々の心に受けつがれています。
と書かれている。
神門通り
参道の土産物屋や食事処はリニューアルされて、きれいだ。昔の方がよかったという方はいらっしゃると思うが、昔を知らない私としては、買い物をするにも店内が広くきれいに陳列されていて気持ちがよかった。妻は予め調査のうえ、お土産リストを作成していたので、一店舗5分ほどで5店ほどを廻り、一泊二日の国内旅行でよくこれだけお土産が買えるなと思うくらいずっしりと重い買い物をしていた。それだけ出雲のお土産は魅力的ということである。
また、着いてすぐに昼食に出雲そばのわんこそばを食べる計画だったのだが、当日は出雲駅伝が開催されていた影響もあったのか、どの店も長い待ちのため、結局計画していた店ではなく並ばずに食べられるところにせざるを得なかった。
地図
今回の、出雲の国探訪の旅、関連地図を示す。
以上
(2021/10/16)