御朱印集め

御朱印集め(19) 霧島神宮

御朱印集め(19) 霧島神宮

 霧島神宮は、海抜およそ500mの、鹿児島県霧島市霧島田口に鎮座する。この日は小雨だったが、ここまでの道のりは快適な山岳ドライブウェイで、紅葉・黄葉が鮮やかだった。関東の紅葉より鮮やかに見えるのは、九州が南の地で暖かく、かつ山地で寒暖の差が大きいためであろうか。

 

御由緒

御祭神

 天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)

 古事記(現代語古事記 竹田恒泰著)によると、出雲の国譲りが成った後、天照大御神は太子(皇太子)である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に、「葦原中国(あしはらのなかつくに)に降って国を知らせ(治めよ)。」と命じた。天忍穂耳命は、「私が降る準備をしている間に子供が生まれました。その名は邇邇芸命(ににぎのみこと=瓊瓊杵尊)といいます。この子を葦原中国に降すべきでしょう。」と申し上げた。この子の母は、天地開闢の神々の最初のグループである造化三神のうちの一柱である高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の娘の万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)である。このようなことで、天照大御神と高御産巣日神は、邇邇芸命に、「この豊葦原水穂国(とよあしはらみずほのくに=葦原中国)は、汝が知らす国であると命ずる。」と仰せになった。これが天孫降臨の経緯だ。天孫というのは、邇邇芸命が天照大御神の孫だからである。

・嫡后 木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと) 

 嫡后(おおきさき)とは、正妻のことだが、瓊瓊杵尊は他に妻は持たれていない。ただし、結婚の際に、父神である大山津見神は、木花之佐久夜毘売(=木花開耶姫尊)と姉の石長比売(いわながひめ)を姉妹で嫁がせたのだが、容姿端麗な木花之佐久夜毘売に比べ、石長比売は大変醜かったので、瓊瓊杵尊はその日のうちに石長比売を実家にお返しになってしまった。そのとき大山津見神は、「石長比売を側に置けば、天つ神御子の命は石のように変わらず動きませぬように、木花之佐久夜毘売を側に置けば、木の花が咲くように栄えますように、と願をかけて姉妹を一緒に送り出しましたのに、このようにされたのなら、天つ神御子の命は桜の花のようにもろくはかないものになるでしょう」と言い、それ以来、天皇の御命は限りあるものとなり、寿命が与えられてしまったのである。

・御子 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=火遠理命 ほおりのみこと=山幸彦)

・嫡后 豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)

・御孫 鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)

・嫡后 玉依姫尊(たまよりひめのみこと)

・御曽孫 神武天皇

 

御系譜

 

 

※神様のお名前の表記に揺れがあるが、各神社毎に、その神社の御由緒に記載されている神様のお名前の表記法に従って、その神社の御祭神として当ブログ内に表記している。また、古事記と日本書紀では表記法が異なるが、上記のご系譜の図は、基本的に霧島神宮でいただいた御由緒(日本書紀の表記法)にしたがった。また、当ブログの神様のエピソードとしては、古事記から引用していることが多いことや、また田中英道先生のお話を引用する際には、その表記に従うなどの事情があるため、そのときどきで表記が異なり、読みにくいところがあるが、ご勘弁をお願いしたい。

 

 私がこの、一連の神社巡りをするきっかけを与えてくださった田中英道先生は、次のようなことを仰っている。

 天孫降臨というのは、高い(天上の)高天原から降りてくるのではなくて、鹿児島の天降川(あもりがわ)に船で着いたと考えているが、神話では天孫降臨なので「降りてくる」ということで、霧島神宮は神話の天孫降臨を尊重して作られた神社だ。しかし、我々の新しい解明で、高天原は鹿島から鹿児島へ、鹿島神宮、香取神宮の辺りから来たという、新しい天孫降臨の構想が現実的に見えてきた。こういう古い伝説をこのように後になって大きな神宮にしたことも、日本の文化の在り方だと思う。逆に天孫が降臨されたという、ある種の神秘化された特色がこの神宮にもあって、それを見ることもとても面白いことだと思う。

 霧島神宮は邇邇芸命(ににぎのみこと=瓊瓊杵尊)がお住みになって、以降4代、つまり神武天皇まで鹿児島に国ができたと言えると思うので、ここが重要な役割を果たしたと想定できる。

 天孫降臨の地、邇邇芸命が鎮座したと伝わる霧島連山があり、それを祭る神社が大昔からあった。山神社というところがあったからこそ、現在のような立派な神宮ができたと思う。

境内

大鳥居

 大鳥居には菊の御紋がある。駐車場はこの鳥居をくぐった上の方にあるので、この写真は帰りにクルマから降りて撮った。

二の鳥居

 ここから見下ろすと神橋が見える。

神聖降臨之碑

さざれ石

 鹿島神宮にもさざれ石はあった。やはり勅祭社(祭祀に際して天皇により勅使が遣わされる神社)にはこれがあるのか、と思ったが、調べてみると鹿島神宮は勅祭社だが、霧島神宮は勅祭社ではないということがわかった。天孫降臨を行われた瓊瓊杵尊という皇祖神をお祀りしているのだからてっきり勅祭社かと思ったが。

三の鳥居

御神木

拝殿

 お賽銭箱にも菊の御紋が輝いている。(菊の御紋があるのが勅祭社かと思ったが違うのであった。因みに出雲大社には菊の御紋がないが勅祭社である。)

 田中英道先生は、現在は東北大学名誉教授で日本国史学会会長だが、元々西洋美術の専門家で、国際美術史学会(Comite International d’Histoire de I’Art)で要職を務められ、今でもフランス語、イタリア語の論文の査読をなさっており、その審美眼で日本美術を海外に紹介されたりもしておられる。

 その先生は、このように仰る。霧島神宮はその建築が本当に素晴らしい。薩摩藩が立派であったということ、島津公の豊かさを建築が示している。また徳川時代の名建築と似ている。例えば日光東照宮など江戸の建築の粋を集めていると言ってもよいだろう。装飾的であると同時に派手というところがあるわけだ。いずれにしてもそうして地元に神様が降りられたということを記念するうえで島津公が誇りを持っていたということがよくわかる。何度もここに来ているが参拝者も多い。

 私も今回の旅のなかで、霧島神宮がかなり山のなかの標高も高いところにあり、霧島連山に近いということもあり、たいへん趣のある、天孫降臨の地に相応しいところだと感じた。

本殿

 一番奥の、屋根に千木が5組見える建物が本殿。どこの神社に行っても本殿は遠くからしか見られないことが多い。

社務所

山神社

 拝殿の左側に回り込み、少し坂を登った山の中にある。単純に「山神社」と呼ばれ、山そのものが祈り、祭りの対象であり、これが神道の原形だということがよくわかる、と先生は仰っている。

展望所

 天気がよいと、錦江湾に桜島、遙か開聞岳まで見えるというが、あいにくの天気で、道の駅霧島の辺りでは海が見たのだが、ここではよくわからなかった。

 道の駅霧島で海が見えたときの写真。

 

御朱印

メガソーラー建設反対署名

 拝殿脇に、このような立て看板があったので、早速妻と二人で署名を行った。本当に地球や、日本や、そして霧島の自然を守りたい方は、以下のパンフレット上のQRコードの署名サイト(Change.org)などから是非ご署名を!!

以上

(2021/11/28)