知覧特攻平和会館
今回の訪問に先立ち、あらためて本2冊、映画2本で事前勉強を行い、厳粛な気持ちでその敷地に足を踏み入れた。
太刀洗陸軍飛行学校の知覧分教所として設立され、後に知覧教育隊となった、その正門の門柱。
昭和49年に、知覧特攻慰霊顕彰会によって建てられた、特攻隊「とこしえに」の像。
特攻平和観音堂。昭和30年(1955年)、富屋食堂(後述)の鳥濱トメさんの働きかけにより当時の知覧町(現在は合併して南九州市)が建立した。
特攻隊員が出撃前の数日間を過ごした三角兵舎。上空から発見されにくいよう半地下式で三角屋根だけが地表に出ており、その屋根も樹木で迷彩を施されていたという。
一式戦闘機「隼」。皇紀2601年(昭和16年、1941年)に制式採用されたので一式。
知覧特攻平和会館の入り口。昭和62年(1987年)、当時の知覧町が建設。元特攻隊員の方がその人生をかけて全国の遺族のもとに行脚して遺品を集める努力をされたそうだ。
戦後35年を経て、海底から引き揚げられた零式艦上戦闘機(零戦)。皇紀2600年制式採用なので零式。
この写真ではよくわからないが、穴だらけの翼面はぴかぴかに磨き込まれていて、端面に触れるとナイフのように切れそうだった。
館内ではこの零戦のみ撮影許可されており、手紙、遺書、遺品類は撮影不可。最少17歳の特攻隊員だが、みな達筆で、ご両親、ご家族への礼儀正しく、かつ愛情に満ち溢れ、そして特攻の決意を敢然と表明する手紙で、涙なしには読めないものである。よく特攻は犬死だ、などとメディアが言うが、そんなことは断じてない。彼らの特攻があったからこそ、勇敢な日本人を恐れ、米国は日本本土への上陸攻撃をかけるまえに、日本との講和に応じ、日本は軍事的には無条件降伏をしたが、国体護持という条件付きの講和を成立させることができたのだ。手紙などは、限られた時間内ですべてを読むことなど出来ないので、館内で販売されていた本を買って帰った。
知覧は九州の南の端なので、なかなか遠くて行けなかったが、私のように高齢者になってからではなく、できるだけ若いうちに訪問するべきだと思う。自身の生き方や、国というものへの考え方が変わるかもしれない。
飛行訓練生や、間もなく特攻に出撃するために知覧に再びやってきた少年兵が、通った富屋食堂。特攻の母と呼ばれ、映画にもなった鳥濱トメさんがおかみさんをやっておられたものを孫の鳥濱明久氏が復元された。今は記念館になっている。
(2021/11/24)